息子が幼稚園でちょっと悪ふざけが過ぎたらしく先生からもご指導を受けた。
様々な情報から判断するに、みんなでふざけてやりはじめたことをどんどん真似してエスカレートしてしまったらしい。僕自身にも身に覚えがあるし、よくありがちな話だ。息子も他のお友達がやっていたと言い訳をしていた。息子には、たとえ他のお友達がやっているからと言って、一緒にやったら同罪だし、何よりも自分の頭で何も考えずに真似をするなんて、一番恥ずかしいことだと、諭した。
ここで、ふと先々週にテレビを賑わせた、いわゆる安保法案騒動との共通点を見出してしまった。一部の確信犯的な人々を除いて、クーデターだ、ヒトラーだ、徴兵制だ、戦争だなどと連呼をしていた人はこういうことなのだ。
前回のエントリでも書いたように、クーデターだとかヒトラーだとか言っている人はその根拠や意味をあまり考えることなく、一部の人が言っているのに影響を受け、思わず一緒に連呼しているだけなのだ。こう考えると自分の中では非常に納得がいった。幼稚園児やせめて学生のうちはまだ若気の至りとして許されることもあろう。しかし、大人になっても、そのままでは非常に危険だと思う。何故なら、考えることを放棄して感情の赴くままに行動を起こすことはまさしく戦争を引き起こしかねない行為だからだ。
あるお笑い芸人は、首相に対して「てめえが歴史に名を残したいだけだろ」と言ったという。それは一体、どういった事実の積み重ねの上の根拠があってそう断言しているのか。その前後の文脈も含めて聞いてみたが、そうした根拠の説明は一切なかった。私は特に支持政党はないのだが、首相を〇〇を許さないなどと個人攻撃を行うことはどうしても違和感と嫌悪感を覚える。なぜなら、自分の意見とは違っていても首相は現在の民主主義のもとに選挙によって合法的に選ばれているのであり、その首相を個人攻撃するということは支持した大多数のぼくたち国民をも馬鹿にしているということになるからだ。どうしても気に食わないのであれば太鼓をたたいて騒ぐより、自分たちは何を思うのかをロジカルにまとめてネットやSNSを通じて拡散したり、次の選挙に立候補すべく準備を進めればよいだけだ。
根拠を明らかにしない限り、ただの薄汚ない中傷でしかないし、ロジカルには無意味だ。しかし、中にはそれを鵜呑みにして知人に同じことを言う人も出てきて、「あれは歴史に名を残したいだけなんだ」と訳知り顔で語る大人も出てくる。そして自分の頭でよく考えもせず、思考を停止したまま、歴史に名を残したいだけだ!クーデターだ!ヒトラーだ!と叫ぶことになる。僕は、世間で言われるようないわゆる右でも、左でもないと思っている。ただ、ロジカルにものを考えないと気持ちが悪くてしょうがない。
それ故に、このようななんの根拠もない、他人をレッテル貼りして印象操作しようとする発言を見せられてしまうと、そうした人間が多く所属する組織や集団を支持したくなくなってしまう。法案成立後も支持率に大きな変化は見られなかったことを見ると、この僕も感じていた違和感は多くの日本人も同じ感覚だったのではないかと思う。
今回、マスメディアの連日の報道なども手伝って、安保法制反対派の人々が、そういうレッテル貼りの言葉を連呼している姿が、日本国民の心に深く、深く刷り込まれていった。このマスメディアの報道も手伝って、日本国民の間には安保法制に賛成・反対ということを考える以前に、安保反対派に対するネガティブイメージが非常に大きくなってしまったのではないか。マスメディアは何を意図して、あのような反対派の映像を連日流したのか、というのは検証の余地があるが、もしも世論を反対に持っていきたかったのであれば、逆効果ではなかったのではないか。
もちろん反対派の人々の中にも純粋にロジカルで、なるほど、と思える意見もある。しかし、野党が「ある世論調査で8割の人が反対している、計算すると日本国民の1億人が反対をしているのだ!1億人の声を無視する気か!」などという、反論する気にもなれないほどの、中身のない暴論を叫んだりする時点で良識ある多くの日本国民の心はもう取り返しのつかないほど離れて行ってしまったのではないかと思う。